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2007年11月07日

日本の開国の秘密

開国とは何だったのでしょうか。
少し前から注目していました。

日本は江戸時代に200年以上に渡って鎖国を続けており、対外的な窓は長崎の出島に限られ、日本人の海外渡航や大船建造の禁止など統制が行われていた。

18世紀には、主にロシア、イギリス、フランスなど帝国主義時代の欧米列強が日本へも接近し、日本人漂流民の返還のために蝦夷地へ来日したアダム・ラクスマンの来航(寛政4年(1792年))といった諸外国が通商を求める出来事や、1811年(文化8)のゴローニン事件といった摩擦・紛争が起こり始めた。幕府は1791年には寛政令、1806年には文化令がそれぞれ出され、来航した外国船に対して必要な物資を提供する政策が行われていた。

25年には一転して強硬な異国船打払令(文政令)が出され、文化5年(1808年)にはイギリス船が長崎へ上陸して食料を奪うフェートン号事件が起こり、1837年には浦賀に侵入したアメリカ商船に大砲が打たれるモリソン号事件が起こる。

幕府の対外情報源は、出島において貿易を許可されていた中国(清)とオランダの「風説書」が主であった。アヘン戦争で中国の清朝が敗北したことが伝わる(1842年)と、老中の水野忠邦は1842年に令を緩和する(天保の薪水令)。44年にはオランダが開国を勧める親書を送る。

アメリカ合衆国は石炭補給基地の確保や、当時産業用油として需要が高かった鯨油の採取と捕鯨拠点の確保、日本沿岸で漂流した自国民やその財産の保護、日本との自由貿易などの理由で日本との通商を試みていた。1846年(弘化3)、東インド艦隊司令長官ビッドルを派遣して国交を求めたが、江戸幕府はこれを拒絶し、46年の米墨戦争の勃発のため帰国する。49年3月には漂流民の返還を求めるプレブル号が来航し、長崎奉行の仲介で解決する。この頃には「風説書」により、アメリカより通商を求める使節が来航する情報が幕府に伝わっている。

嘉永6年(1853年)6月、アメリカは再び東インド艦隊司令長官に任命されたマシュー・ペリーを派遣する。ペリーは共和党のフィルモア大統領から海軍の作戦行動として日本との条約締結を命じられるが、アメリカでは交戦権が上院に属するため、発砲は禁止されていた。ペリーは蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいて、53年7月に浦賀沖に来航し、7月14日に久里浜に設置された開国を求めるアメリカ大統領国書を提出し、9日後に帰国。7月にはロシアのプチャーチン艦隊が長崎へ来航。

江戸幕府では老中阿部正弘らを中心に、7月31日に国書を開封、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めた。先例を破って朝廷に事態を報告、対策を協議して日米和親条約を結び、下田と箱館を開港し、9月には大船建造の禁を緩和、10月には海外渡航が解禁される。さらにオランダ商館に蒸気船を発注し、60年には勝海舟ら咸臨丸を派遣する。

1854年1月、琉球や小笠原諸島などを回航していたペリーが国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航。3月に日米和親条約が、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約がそれぞれ締結される。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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